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著 者:氏家幹人
出版社:講談社学術文庫
書は、「勝ちに不思議の勝ちあり。負けに不思議の負けなし」の言葉を残した肥前国平戸藩の第9代藩主、松浦静山が47歳で隠居し、本所の平戸藩下屋敷で20年間随筆を書き続けた甲子夜話をベースに、江戸中期「老侯の時代」を語り描く。十五夜の月夜にうさぎが消える、永代橋が落ちて死者が150人以上出た、そしてカッパの河太郎の話が登場する。また海外諸国の話まで出てくる。静山が多種多様な話を仕入れることができたのは、大名、旗本、老中、学者から、お抱えの相撲取りや弓職人、相撲興行師など多彩な人々と交流していたからである。一方で静山は、藩主として藩政に関わった31年間に、藩組織の合理化、農具・牛馬の貸し出しなどで、藩の財政窮乏に取り組み、藩校をつくり人材育成に取り組み、藩政改革の多くに成功を治めている。また松浦家は東北、奥六郡にもつながる。
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平戸城住所:長崎県平戸市岩の上町1458
Tel:0950-22-2201玄界灘に面し三方を海に囲まれた丘陵に築かれた城。五代藩主松浦棟(たかし)により宝永元(1704)年に築城された。しかし、江戸中期に築城が許されるというのは珍しい。ここには東シナ海の「海防」を意識する幕府の意図もかさなる。一方で築城前、寛永18(1641)年に平戸にあったオランダ商館は、長崎に移転しているのである。城は、そのような藩の財政が厳しくなる中で完成されたのである。これもまた、元寇はじめ「海防」の松浦党の歴史にかさなる。
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伊能図住所:長崎県平戸市鏡川町12
Tel:0950-22-2236平戸城築城から百年後、伊能忠敬が静山の求めに応じて平戸にやって来る。忠敬は寛政12(1800)年から日本沿海の測量をはじめる。その前の寛政4(1792)年にロシア使節ラクスマンが根室に来航し、通商を求めるための江戸湾入港を要求していた。そして文化5(1808)年には、イギリス軍艦フェートン号が対戦中であったオランダ船を追って長崎に入って来るのである。そうした列強国の日本への接触が顕著となる中で、静山(せいざん)と伊能忠敬の特別な交流がある。
松浦史料博物館蔵