大隈重信

2013年3月29日

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大隈重信
著 者:島 善高

出版社:佐賀県立佐賀城本丸歴史館

末明治期に多くの佐賀人が活躍した。本書は、幕末明治期に近代国家建設のために活躍し、偉業をなし遂げた佐賀出身の人物をシリーズで紹介する『佐賀偉人伝』の第2冊。佐賀藩は、福岡藩とともに長崎港の警備を担い、海外の最新情報を入手した。それが精煉方という研究機関を創設、蒸気機関車や蒸気船、鉄製大砲など武器の製造、西洋医学の研究、牛痘ワクチンを輸入して天然痘の撲滅に貢献することにつながる。また佐賀藩には、武士道の心得を山本常朝(じょうちょう)が語り残した江戸中期の書物、『葉隠(はがくれ)』がある。大隈重信(おおくましげのぶ)は、その佐賀藩で生まれ育ち、激動の時代を生きた。「一国の独立に大切なものは、国語であり文字である」「社会では学問が羅針盤であり、パロメートル(気圧計)であり、それを手放せば大海に葬られる」と大隈は言う。また「人生は川の流れに等しく、少年のさまは流れの源、老人のさまは下流のよう。水が初めて源から出発すると、障害にあって瀧になり、奔流となり、留まれば淵、放すと瀬。ただ志を立てて社会に出るものの決心と勇気は、世間の心の強い人をたじろがすには充分なものがある」、そして葉隠は、「慈悲より出る勇気が本の物なり」であると語る。

本から始まる旅がある。

    オススメ旅プラン
  • 岡田三郎助筆「矢調べ」

    岡田三郎助筆「矢調べ」

    (佐賀県重要文化財)

    住所:佐賀市城内1-15-23
    Tel:0952-24-3947

    の作品が描かれたのは、明治26(1893)年。描いた岡田三郎助は、女性像を得意とし、後に明治、大正、昭和にわたり東京美術学校で西洋画の指導をし、日本近代洋画史のアカデミズムを代表した。佐賀の名家に生まれ、描いた当時は24歳。日本的な心情を洋画に映す。心情とは、慈愛や慈悲から生まれる眼差しである。また庭のように日々つくるものであり、学び、教え語り伝えるものである。これが佐賀の思想であり歴史だ。                     

    佐賀県立美術館蔵

  • 大隈重信旧宅

    大隈重信旧宅

    住所:佐賀市水ヶ江2-11-11
    Tel:0952-23-2891

    保9(1838)年生まれの大隈重信の家。天保期以前の武家屋敷の面影を残し、国の史跡に指定される。青年期に蘭学を学び、後に指導者にもなった大隈は、7歳で藩校弘道館に入学し、葉隠に基づく儒教教育を受けている。天保期以前の武家屋敷の面影とは何か、惻隠(おくいん)の情である。あわれみのこころである。凹型の屋根をもつ寄棟のクド造り藁葺、南面の庭から奥まで届く日差しと風通し。温かな思想は、テキストではなく家のくらしで身につける。                                                                                       

  • 釋奠

    葉隠の筆録

    住所:佐賀市城内1-15-23
    Tel:0952-24-3947

    賀・鍋島藩3代藩主の祐筆(ゆうひつ、書記)田代陣基(つらもと)が、2代藩主の御側役山本常朝(つねとも)から、宝永7(1710)年より常朝が亡くなる2年前まで、7年かかけて聞き取り、編集した「葉隠」全11巻。常朝は仏道を学び、法号を受けた武士である。御側役は、主の思いに奔走し、人から嫉妬もされるお役目。「一念一念と重ねて一生なり。ここに覚え付き候へば、外に忙しき事もなく、求むることもなし。この一念を守って暮らすまでなり。」は裏付けのある言葉である。

    佐賀県立博物館蔵

大隈重信

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