播磨灘物語
著 書:司馬遼太郎

出版社:講談社文庫

書は、稀代の軍師・黒田官兵衛の前半生を、司馬遼太郎が語り描く。姫路城小寺家の家老の家に官兵衛は生まれた。小寺家は、鎌倉幕府打倒の元弘の乱(1333)で後醍醐天皇の皇子護良(もしよし)親王の令旨(りょうじ)を受けて挙兵した播州の赤松則村円心の一党。黒田家は、室町期末に北近江から追われ、岡山・備前福岡から播磨に流れてきて、目薬売りで成功し、やがて小寺家の家老に迎え入れられた。播磨の地で生まれ育った官兵衛は、儒教精神と合理性を兼ね備えた武将になり、信長こそが時代を切り拓く男と見抜き、地方大名の一家老に過ぎない分際ながら、織田勢力を播州に引き入れ播州と天下の形勢を変えようとする大構想をたてる。主君の小寺家が毛利支持に傾き板挟みになり、また織田方への復帰を説得するため単身で乗り込んだ伊丹城で土牢に幽閉され、天下分け目の天王山の戦いへの「中国大返し」では秀吉の決断をうながしながら、天下を取った秀吉からその才知を恐れられ遠ざけられる。司馬の祖先は、姫路の南で一向宗を信仰する武士集団に属し、秀吉、官兵衛の軍勢に攻め滅ばされた。しかし司馬は、惹かれる戦国末期の点景として、官兵衛を「おかしみのある男」と語り、友人にもつならこういう男と記す。

本から始まる旅がある。

    オススメ旅プラン
  • 大中遺跡公園

    大中遺跡館

    住所:兵庫県加古郡播磨町大中1-1-2
    Tel:079-435-5000(播磨町郷土資料館)

    戸内海に面する播磨平野。この地域の豊かさをうかがい知る古代の景観がこの公園であり、隣接する資料館である。昭和37年地元の中学生が発見した弥生時代後期~古墳初期の集落遺跡、大中遺跡。250軒の住居跡が眠っていると推定されている。竪穴住居が園内に復元され、大量の土器やタコツボが資料館で展示される。遺跡の年代は邪馬台国の時代とも重なり、天然の要塞に囲まれた立地は防御に最適である。そして分割された青銅鏡片も出土。この激動の中で古代国家へ移行する流れも見える。                                           

  • 姫路城

    姫路城

    住所:兵庫県姫路市本町68 姫路城三の丸広場北側
    Tel:079-285-1146

    界遺産姫路城は、17世紀初頭の城郭建築の最盛期、防御に工夫した日本独自の城郭構造を最もよく示した城である。はじまりは、南北朝期の円心の赤松氏で砦や館程度、城郭建築は、戦国期小寺家から放置された砦を任された黒田一族にはじまる。そして地理上西国大名の押さえ、目付としてこの城の重要性に目をつけたのが秀吉で、現実化したのが家康だった。江戸期、西国探題が置かれ、城主が幼少であれば別の譜代大名家に差し替えた。姫路城の美しさには、徳川政権の意図がある。                                                 

  • 黒漆塗桃形大水牛脇立兜

    黒漆塗桃形大水牛脇立兜

    住所:福岡県早良区百道浜3-1-1
    Tel:092-845-5011

    馬の播磨物語で、連歌をはじめ室町期の典雅の美を受け継ぐ一族と語られる黒田家。この兜は、官兵衛の長男、福岡藩初代藩主・黒田長政が愛用した大水牛の兜。一般の兵が使った桃形兜(ももなりかぶと)に、和紙で形を作り、うるしで固めて整形した角は、意匠性としてつけられた変わり兜である。長政は幼名が松寿丸で、人質として近江長浜城に預けられ、伊丹城で消息不明となる官兵衛への信長の嫌疑から、処刑の命が一度は下った生命(いのち)である。この兜、どこか褐淡さもあわせ持つ。

    福岡市博物館蔵


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