南朝全史 大覚寺統から後南朝へ
著 書:森 茂暁

出版社:講談社選書メチエ

書は、謎の多いもう一つの宮廷、南朝の実像に肉薄し、劣勢ながら、何故南朝が存続できたのかを、大覚寺統から後南朝消滅までの200年の歴史に沿い、体系的に明らかにする。北朝、室町幕府の分裂等の外的な要因に助けられ得た一面はあるにしても、実は南朝は、政治・文化的に実体をともなった本格政権であったいう。後醍醐天皇が取り組んだ「建武の新政」は、古代の大化の改新から始まる律令制の復古ではない。後醍醐天皇は、宋学や元の最新の中国の国家統治システムに学び、また、当時流通していた宋銭に対して、あらたに銅銭、乾坤(けんこう)通宝や紙幣の発行流通も企画検討している。北朝、室町幕府の方が古い。平安時代の有職故実(ゆうそくこじつ)を「建武年間行事」に編纂し、和歌や管弦にも造詣が深い。古典の価値を認めてのラディカルさである。後醍醐天皇とは?を簡単に語ることは難しい。しかし後嵯峨天皇以降、皇室が分裂し大覚寺統と持明院統の両統迭立(りょうとうてつりつ)の中にあって、後醍醐天皇は実子に皇位を譲れない「一代かぎりの帝」であった。多面、多層の思想と思考が限られた時間の中で、実現に向けて動き出す元弘の乱から建武の新政。その相互理解されない新しい価値観は、南朝に受け継がれた。

本から始まる旅がある。

    オススメ旅プラン
  • 賀名生梅林

    賀名生梅林
    あのうばいりん

    住所:奈良県五條市西吉野町北曽木
    問合せ先Tel:0747-22-4001(五條市企業観光戦略課)

    陵を麓から中腹までおおいつくすように2万本の梅が咲き誇る梅林。700年前の南北朝時代に京の都を追われた公家たちが、この梅林を歌に詠んだ。100年以上前の延喜元(901)年に、九州・大宰府に左遷された右大臣の菅原道真も梅を歌に詠んだ。人の手に守られながら花を咲かせる梅の木は、宮廷・王朝文化を象徴する。また梅は「熟(う)む実」に通じ、寒い冬をじっと耐えて春の訪れに一番に咲く花。都を離れ、吉野の山で苦しい時を耐えた捲土重来(けんどちょうらい)の思いにも、かかる。

              

  • 重要文化財堀家住宅

    重要文化財堀家住宅
    (賀名生皇居跡)

    住所:奈良県五條市西吉野町賀名生
    問合せ先Tel: 0747-32-9010(賀名生の里歴史民俗資料館)

    野川に注ぐ丹生川(にうかわ)沿いの谷にある賀名生(あのう)の里。延元元(1336)年の暮れ、足利尊氏の軍勢によって京の都を追われた後醍醐天皇は、吉野へと向かう途中に賀名生に立ち寄る。その時、後醍醐天皇を手厚くもてなしたのが、堀孫太郎。その後、この地は後村上天皇、長慶、後亀山天皇の行宮として南朝の歴史を刻むことになる。                                                                    

                                                         

  • 国宝 宝簡集四十

    国宝 宝簡集四十
    (元弘三年九月二十三日後醍醐天皇綸旨)

    住所:和歌山県伊都郡高野町高野山132
    Tel: 0736-56-2011

    醍醐天皇が、鎌倉幕府の倒幕と自軍の勝利を祈願した綸旨(りんじ)である。綸旨とは、天皇の意を受けて出す命令文書のこと。宝簡集とは、高野山金剛峯寺伝来の平安から江戸時代の古文書群で「高野山文書」とされ、宝のような書簡の集まりの意味。江戸時代に整理表装され名付けられた。元弘3年(1333)とは、元弘元年(1331)の元弘の乱で隠岐島に流されていた後醍醐天皇が島を抜け出し、足利尊氏を味方につけ、東国で挙兵した新田義貞とともに鎌倉幕府を滅亡させた年である。

    ※画像:金剛峯寺蔵


By :
Comments : 0